豊臣秀次は謀反したのか?
豊臣秀吉の甥にあたります。この方、皆様ご存じ、秀頼が生まれる前には秀吉の跡取りとして養子になった人。そのあと、彼は関白となり、出世コースまっしぐらでした。
しかし、茶々が秀頼を産み、跡継ぎができたことで、秀次の事を追いやるようになってしまいました。
秀次と秀頼とは25才の差があります。
1593年に、秀頼が生まれ、その後2年後の1595年、秀次は秀吉から謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放された後、自害します。
さらに秀次の妻子や側室なども処刑されました。
さて、リーディングしていくと、秀次ですが、一番最初にトンカチが見えてきます。頭を叩くように見えたトンカチです。
頓珍漢の意味なのか?頭にきているのか?という事が言えるように思いますが、本人の様子をみていくと、頓珍漢のほうですね。
秀次をリーディングの会話になります。
かなりの教養があると言うお話ですが・・・
「そんなの幾らだって、教える人はいるよ。それが身についているかは別問題でしょう。」と話しています。
謀反を企てた疑いのために処刑という事が歴史上に残っていますが、何をしたんですか?
「秀頼が生まれたために、私が邪魔になるだろうと教える人がいました。その時、秀頼が生まれてこなければよかったな。という事を話したことがあった。その時の話が広まったんだろうと思う。
まだそんな1歳やそこらの子供に対して、どうしようとすることも浮かばないし、自分は関白で満足していたから、謀反という言葉に身に覚えがないと言ったが信用してもらえなかった」
家族も亡くなったわけですが、これについてはどうですか?
「生き恥をかくくらいならということで、家族も殺してもらうように妻本人からの希望だった」
ここで思うのが、秀次たちから、酷い秀吉の印象付けの為という気持ちがあったのではないかと私は思います。
高野山へ行かされた後自害しましたが、自害も命令だったのですか?
「命令ではないが、食べていけなくなったら、死ぬしかないだろう」
母の秀吉の姉の「とも」は秀吉に「そんなことを考える子ではない」と言ったのですが、聞いてもらえませんでした。
秀吉に秀次になぜ自害までさせたのですか?
「秀頼を守るにはそうするしかないと思った」
秀次には追放はしたけど、自害せよとは伝えていないように思いました。
秀次に訊くと「食べていけないから」と言っていたんです。僧侶になるつもりもなく、なんとかしてお供の人達を食べさせる方法を考えるわけでもなく。
という事を私はリーディングで感じ取りました。
勿論これはあくまで私のリーディングなので、事実を証明するものではありません。






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