「修身」停止指令と「教育勅語」の失効・排除

重要な話なので、長いですが、最後まで読んでほしいです。

1945年12月:GHQの指令により、修身、歴史、地理という教科が停止される
1948年6月:教育勅語という理念・原典そのものが国会決議で失効・排除される

という歴史があります。
まず、「修身」とは何かですが、簡単に言うと道徳の教科書です。
子供時代に学校で習う道徳の事なのですが、今、外国人から日本人は素晴らしいという事を聞きますよね?
こういう修身の教育が幾年も続いていたからではないでしょうか。でも、戦争に負けてから、停止されてしまいました。

「修身」は礼儀作法がきちんと教育書になっています。
挨拶をきちんとしましょう。先生の方に向いて挨拶をすること、道を譲る事、電車でも出てくる人が終わるまで、待ちましょう。列を作りましょう。など、細かい指導をしています。
来客への接し方、見送りも含めて具体的な行動規範などが書かれていました。

しかし、GHQは、軍事的に関係することが書かれているものは全て禁止にしました。
歴史や地理はわかりますが、修身は何故か?となります。

それは、「有事の際の奉公、皇運の扶翼」という事が書かれているからです。
ちょっとわかりづらいですよね。
「国にとって一大事なことがあれば、天皇を支えましょう。」ということなのでしょうが、
当時はここの解釈として、軍国主義的、超国家主義的にならぬよう、用心したためと言われています。
修身の教科書の中には所々に立派な軍人の話が盛り込んでいて、命を捧げることを美徳とする内容もありました。

三教科が無くなってから、1947年に地理と歴史と道徳が合わさって「社会科」ができました。
しかし、道徳という本格的な教科書らしきものができたのは、1958年になってからで、13年の時が過ぎてからです。

①何故道徳はこんなに長い間作られなかったのでしょうか?

もう一つの疑問があります。
1948年6月:教育勅語という理念・原典そのものが「国会決議」で排除となりました。

「教育勅語」というのは、http://www.tarojiro.co.jp/news/5905/を短いので読んでみて下さい。
天皇のお言葉です。内容も軍事主義的にはとれません。

②これを何故、政治家達が排除決定したのでしょうか?

これらの謎をリーディングしてみます。
①マッカーサーにききます。GHQで三教科停止にしていますが、軍事とは関係ないところは残しておいても良かったのでは?
「これ(修身)を読んだ時、実は感動した。勿論軍事行為に関係する話はともかくとして、ここまで教育が行き届くことは素晴らしい。しかし、教科書の部分に、削除する部分とかは私が決めることではなく、日本側がやって我々に納得させなければならないと思う。」
じゃ、GHQが停止を命令したわけではなく?
「私は軍事関係を消してくれと言っただけだ」
で、調べました。本当だ、マッカーサーは全てを停止するつもりじゃなかった。

実際は、CIE(民間情報教育局)がSCAPIN-178、SCAPIN-519による、廃止命令を出したのです。
戦後直後のCIEによる「軍国主義の目を完全に摘む」というのが残されています。

調べていくと後にマッカーサーは1946年3月にアメリカ本国から超一流の教育学者たち(アメリカ教育使節団)を日本に呼び寄せ、厳しすぎる決定を含め、教育について修正しようと行動を起こしていました。
AIからの引用になります。

使節団は、文部省が教育を細かく統制する体制を改め、地域ごとの自主性を重視すべきだと提言しました。

  • 教育委員会制度の導入
  • 地方自治体による教育行政
    が進められました。

使節団は「民主主義社会にも人格教育・倫理教育は必要である」という立場でした。

  • 国家が一方的に価値観を教え込む修身は問題。
  • しかし、道徳教育そのものをなくすべきとは言っていない。

という考えです。そして、後に

  • 「道徳の時間」
  • 「特別の教科 道徳」

へとつながる流れが生まれます。

結局「教育から軍国主義は排除するべき」

としながらも、「日本人にとって天皇は歴史的・文化的存在であり、それ自体を否定する教育は望ましくない」

という比較的穏健な見方も示しています。

「アメリカの教育をそのまま日本へ移植してはいけない。」という趣旨が繰り返し述べられています。

つまり、

  • 日本には日本の歴史がある。
  • 日本人自身が民主的教育を作っていくべき。

という考えでした。

使節団は**「助言機関」**であり、決定権はありませんでした。

実際の政策はGHQの中の民間情報教育局(CIE)や日本政府との調整で決まりました。

その結果、

  • 教育基本法(1947年)
  • 学校教育法(1947年)
  • 六・三・三・四制
  • 教科書検定制度
  • 男女共学

などは実施されましたが、

使節団が望んだ内容がすべて採用されたわけではありません。
「1945年末の修身・歴史・地理の停止」や「1948年の教育勅語排除」は占領初期の急速な改革ですが、1946年の教育使節団は、それらを無条件にさらに推し進めるだけではなく、日本社会に適合する教育制度を模索するようGHQに助言した側面もありました。これは戦後教育史ではしばしば見落とされがちな点です。

 

使節団が来る前の1945年12月31日文部大臣前田多門氏が修身廃止を決めました。国会の決議ではありませんでした。

「道徳を独立教科として作らない」という判断された日付1947年3月20日は当時の文部大臣は田中耕太郎氏です。やはりこれも文部省の判断でした。どうして?と訊くと
「軍事主義の思想を持っていると疑われるのを恐れた。(命乞いと心の中に入ってきました)何かをすれば、また、軍国主義という声がしてきます。その度に、恐怖になる。」とリーディングでは聞こえたのですが・・・
13年間道徳は社会科の中で教育という方針が続きました。

②何故「教育勅語」を排除したのですか?
これは国会で決めたので、当時の総理は日本社会党の芦田均氏、文部大臣は森戸辰男氏でしたので、芦田総理に聞きたいと思います。
「恐れ多くてこの話題すら出すのが怖かったです。何せ天皇は神様ですから、失礼があってはならないと言う教えでした。それを排除するなんて言葉を自分から出すのは、恐ろしかったです。口から心臓が出るくらい怖かった。しかし、それを行わないと命がないと思った」

森戸文部大臣はどうですか?
「私自身は排除したくありませんでした。国の象徴としての天皇が述べた言葉です。軍事的にとらえる必要はないからです。でも、アメリカは何を言っても通用しないというのもわかっています。だから、やむを得ないです。」

以上、リーディング内の会話になります。

今回のリーディングで、私はGHQに対する思いが変わりました。全てにGHQのせいにしていたように思ったので訂正します。

また、当時の総理と文部大臣の性格がこんなにも違うんだというのを垣間見て、当時の「天皇」に対する感覚は今の私たちにはわからないものがありますね。
結局、「犯罪者として扱われる」「命の危なさ」が常に頭の中によぎっていたと言うのが分かります。
以上は私のリーディングによるものであって、会話に関しては事実として残されたものではありません。

人物,歴史

Posted by 笛野 はすな