貧しかった室町時代
室町時代というと私はあまり印象がないという感じで、南北朝時代と重なるくらいです。
そして知られているのかしら、天皇はこの頃、財政が大変逼迫していたという事を。
後土御門天皇(103代、1464-1500)、後柏原天皇(104代、1500-1526)、後奈良天皇(105代、1526-1557)の時代の事です。
1459年の干ばつと台風、1460年の大雨洪水、冷害、蝗害(こうがい)などが重なって各地で凶作となり、長禄・寛正の飢饉が起きました。
応仁の乱が終結した後、1485年に山城の国一揆が、1488年に加賀の一向一揆が起きます。1493年の明応の政変の後、本格的な戦国時代に突入しました。大地震が続発。1495年9月12日に明応鎌倉地震が起きました。
朝廷も財政難で皇族も庶民と同じように切迫していて、儀式など、大変なお金がかかることを中止していたのです。
これらの時代では、「応仁・文明の乱」の時と重なる後土御門天皇自身が繰り返し辞意を表明したという話はご存じでしょうか?誠か嘘かは不明ですが、辞めたくなるくらい不況だったということなのでしょう。
当時の皇室は財政的に追い詰められていました。節会や儀式は長きにわたって中止されることになっていました。
天皇がきちんと即位するための儀式があります。皇位継承儀礼は3段階あり、第一段階、践祚(せんそ)3種の神器を受け継ぐ儀式です。そして第二段階は即位で、即位礼を行います。第三段階は大嘗祭(だいじょうさい)の儀式をしなければなりません。
後土御門天皇は明応9(1500)年9月28日に亡くなったのですが、その葬儀が執り行われたのは、死後43日目のことでした。朝廷の財政は破産状態だったのです。
次代の後柏原天皇となりましたが、即位礼や殆どの朝儀は中止、ようやく、践祚後、22年めにして、第二段階の即位礼が行われました。本願寺や幕府からの援助があったからできたのです。
そして、次代後奈良天皇の時は逼迫は極限になり、殆どの朝儀は中止、御所を囲う築地塀が崩れ、修繕も出来ない状態でした。践祚後10年後に即位礼が行われました。結局大嘗祭が出来ませんでした。しかし、この厳しい財政の時にも、般若心経を24の一之宮に奉納し、奥書には、自らの不徳を詫びる悲痛な思いが込められていました。
後奈良天皇の宸 現代語訳
今年、全国で疫病が大流行し、万民の多くが死亡した。朕(ちん)は民の父母として、徳を及ぼすことができなかった事に、甚だ心が痛む。密かに般若心経を金字に写し、これを供養させる。これが疫病の妙薬になることを願う。
と残されています。
イメージでは庶民の貧困さもしらず、天皇はのほほんと暮らしていたわけでは無かったのですね。民を子として想い、自分のことより民の事を想っていてくださった天皇だったのです。
天皇の話を聞く機会なんてないですよね。






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