スピリチュアルの意味


まだ、スピというと、占いとか、怪しい人というイメージで思う人がいらっしゃる。
また、スピをしている人も精神的な部分という意味は分かっているけど、外人の話をそのままコピーしてスピと思っている方もいらっしゃる。

自分の言葉で伝える難しさがあります。

私はスピリチュアルとは、「正の考えを自分で整えることができる」ことだと自論ですが、感じています。
誰かが言っていたことをコピーして、スピを主張しているなら、実は何もわかっていないんだと思います。

本来のスピリチュアルは「悲しい、辛い、苦しんでいる」などの時に誰かに助けてもらうという依存ではなく、実は「自分で整えられる思考力」だと思います。それを私はセルフヒーリングと言っています。

例えば、自分の未熟さを他人に指摘されて、傷ついたとします。
それに対して、「ひどいことを言われた」「あの人きついんだよ」「スピの人は優しいから、傷つける人はスピじゃない」なんていう人がいます。何もわかっていないと思います。

そんなに傷ついている人がスピリチュアルといいながら、他人に依存するし、他人のせいにする。
酷いことを言われたという被害者意識が先に立ってしまう。全て他人の言葉によって傷ついたり、喜んだりと振り回されているだけでしょう。

スピリチュアルとは、「自分の精神を整える」という事だと思います。

この場合、ひどいことを言われたという被害者意識で「自分は悪くない」を前面に出すことが「正」ではなく、「自分に足らない」部分を認めて、「立ち直れるコントロールの精神」を持ち合わせていく事が自立した精神だと思います。

「言われた」という言葉でもっと自分をみじめにしていることに気が付いてほしいものです。

それを言いふらす人に限って、自己主張が凄いから「神の存在を否定していること」をしていると感じていないんでしょうね。

そういうことをしているとリーディングはできるようになりません。きっぱり。

そこには他人を否定する言葉ではなく、どう考えるかで、自分を立て直すことができるかが問題なんです。

そこには、正となる基本が必要になります。それは神でも、仏でもいいんです。基本の「正」の中身は共通しているものだと思うからです。
信じていないとか、存在しないとか、他人事に考えるのではなくて、実は、自分の力に寄り添う力の存在を指しているのだと考えるのです。

それをハイヤーセルフという人もいるかもしれません。名前はどうでもいいのです。

例えば、家族の死はとてもつらいです。そんな時、そっと寄り添う力で、「やっと痛みから解放したんだ」と相手の気持ちになって、自分の悲しみを乗り越えていければ、神とか仏の存在も寄り添って感じてくるものだと思います。

これを「やぶ医者だから、治せなかった」と他人のせいにしていたら、ずっと悲しくて、つらい日々を過ごすことになります。恨み言を他人に話して、うっぷん晴らしをされた人は黙って離れていく事でしょう。
嫌われて孤独になることを自らしていることにも気が付けないのです。悪口とは自分を苦しめていく(悪魂)です。

常に「正」は自分の傍にいて、自分を整えようとしていくものだと思います。
他人に指摘される前に教えている存在があります。

よく罰が当たったという言葉も使いますが、罰を与える存在の神や仏と考えるのは被害者意識です。
他人から指摘されたのではなく、「自分で気が付くようにと教えていただいた」と考えたら、恥をかかずに済んだと思うことができるものです。孤独にならずに済んだとも感じてきます。

被害者意識でスピリチュアルを語れば、多分、他人のせいで、自分を正にしようとしてしまいます。「酷いことをされた」「自分は悪くない」という勝ち負けの世界に突入です。そこにスピはありません。

自分の傍(中でもどちらでも)にいる「正」がいつも自分を助けて、自分をコントロールしていく精神力をスピリチュアルだと言えるのではないでしょうか。
言われる前に自分で気が付く「正」の存在こそが、スピであり、神という存在になるのです。

私はその神の存在をリーディングというビジョンによってもっと具体的にわかりやすく教わっているのだと感じます。

身体と心

Posted by Meatel