何故神社なんだろう?

信心する気持ちが芽生えたのは3人目の出産後から。
というのも、信仰心というものは親から教わるものなのかもしれない。

そういう環境が揃っていない家庭では、神棚もないだろうし、神社へはお正月と夏の祭りくらいでは?

私はそういう環境でした。でも、ある日、神という存在を理解したのは、やり残していることがあると、辞めたくても辞められない、理由があるから、今この場にいるんだという事を突然理解した時がありました。

それは、信仰心というより、自分でコントロールできない今の環境というのは、別の次元の何者かが、コントロールしているからだと何故かそういう理解の仕方をしたとき、その名を神様ではないかと思ったことはありました。

でも、信仰心がない私は、新興宗教を始め、信心というものは遠くにありました。というより、否定的でした。何か心のどこかで、偶像的な崇拝は気持ち悪い(すみません)と思っていました。

しかし、妊娠にせよ、結婚も、友人も、親の死も何もかもが自分ではどうにもならない何かが動いているのだろうという想いは生き続けています。

そうなると、駒じゃないかという諦める人生というより、誰が?何のために?何故日本人?何故今ここに住んでいる?出会いや環境などの理由が知りたくなります。

そう思っている時、スピリチュアルという言葉を知ります。漠然とした神の存在とスピリチュアルが結びついた時、ならば、神社に行ってみようという気持ちが働いたのだと思います。

やはり、何も知らない私は、氏神様がという事もその当時はわかりません。でも、降ってわいたように同時期の頃突然、リーディングが出来るようにななりました。誰からも教わりません。明け方、腹式呼吸法を繰り返しているうちに、浄化をするんだと思っていたら、疑問に思う事が目を閉じていると回答と思われるビジョンが見えてくるようになっていたのです。

当時は気が狂ったと思いました。精神科に行って、脳の検査、レントゲンなどもとりました。
忘れやすい、記憶に残らないという現象が同時におきます。当時は若年層認知症かと自分では思っていたからです。

医師には、「リーディングというものは、今必要としている脳の領域を広げなければならないから、犠牲に新しい記憶の領域を減らしているのだろう。」と話してくれました。なんとなく救われたような気持になったものです。

それでも、人の役に立たないのなら、いらない。という気持ちもあり、役に立つほどの真実性があるのかを知るために、色々リーディングを自分でやっていました。友人にも協力してもらいながら。

そんなある日「天照大神」っているの?と訊かれたことがありました。

勿論、当時は、神の存在を漠然ではありますが、「いる」と思っていたくらいで、何の疑いもなく、「天照大神」をリーディングしてみることにしました。

何分経っても「何も見えない」初めての経験でした。

いないんじゃないか?

そう答えるしかなかった。何も見えない=いない となるからです。

そうなると、何故「天照大神」というのが一番偉い日本の神様と言われているのか?疑問になります。色々そこから自分でリーディングが始まります。

神の存在を調べたり、他国の神様もやりましたが、見える神様や見えない神様がいます。なぜ見えるのだろう?

それと、「かごめかごめ」「とおりゃんせ」そんな歌も内容の意味を知りたい。本当に沢山沢山、知りたいが出てきました。

だから、今その回答から選び抜いた神様だけですが、全国回っています。日本人のルーツも知りたくてです。そこに行けば、色々な体験をしてきます。直接的に話を聞けるのが、とても楽しいです。

昨日の回った神社の中に

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