小早川秀秋の裏切りの真相

小早川秀秋は関ヶ原の戦いで、西軍の秀吉側にいました。でも、家康側の東軍へ寝返った人物です。
その時から東軍の勢いが変わって勝利へと導いたとも言えます。
彼は何故裏切ったのでしょうか。

彼をリーディングしていきます。顔は丸い方で、顎が小さい人で背も小さく感じます。
彼はそもそも21歳で亡くなっていますから、少し若い頃の顔なのかもしれません。

彼の考え方です。関ヶ原の戦いのときの考えです。「負け戦をする理由はない。まずは見定めてからでいい。後から追いついたということでいい」そんな気持ちを感じてきます。

裏で取引された可能性があるようですが、それでも、東軍につくと決めていなかったのではないでしょうか。
結果、戦功によって秀秋は、備前・美作の51万石を与えられ、岡山城に入っています。

その前に、15~16歳の時、秀吉の命で朝鮮へ出兵しています。
そこで、秀秋は日本軍側の総大将格として出陣していましたが、
「戦いに勝っても撤退という命令が下り日本へ戻っている」という経験があるからではないかと思います。

そのあと、21歳の若さで亡くなります。

気になるのは、リーディング中、死ぬ間際に「負け戦になって、首を打ち取られた」と言っていたんです。勝ち負けの推測が付く戦いに参加し、負けを承知の無駄な戦いはしないと言っている人が、誤って「勝つ」と判断したことが何かあったのではないでしょうか?

しかし、歴史上ではそのような事実はありません。

秀秋の死因自体が史実上かなり曖昧なんです。疱瘡と公表された一方で、百姓とのトラブル、山伏とのトラブル、小姓との争い、落馬など、後世に複数の異説が伝わっています。
「負け戦で討たれた」という直接的な隠蔽の痕跡はないものの、「跡継ぎなし」という表向きの改易の理由の裏に、何か伏せられた事情があった可能性自体は、研究者の間でも完全には否定されてはいませんでした。

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Posted by 笛野 はすな