飯沼貞吉

飯沼貞吉は白虎隊の自害した20人の中の一人、唯一生き残りの人物です。

白虎隊とは会津藩の一番若い人たちの集団です。「白虎隊」と聞くと若い命が飯盛山で自害した子供達と言うのはしっているかと思います。

白虎隊全体では、士中隊、寄合隊、足軽隊など複数の隊で構成されており、総勢約300名位いました。

元々は警備隊で、士中隊は藩主の親衛隊、寄合隊は予備隊。飯沼貞吉が入っていた部隊は、士中二番隊になります。

この物語が語り継がれていくのは生き残った飯沼貞吉が語り継いでいったからです。

彼らが結成されたのは戊辰戦争のときです。白虎隊に所属していた隊士は10歳から厳しい教育を受けました。

当時の日本では、1866年3月、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を締結。
次第に倒幕が高まり、そこから徳川慶喜は「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上します。

しかし、新政府側はその後も旧幕府側が政権を掌握していることに反発し、明治天皇が「王政復古の大号令」を発令しました。これにより、幕府は完全に廃止となりますが、その後、戊辰戦争が開戦します。

鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、東北戦争、会津戦争、五稜郭の戦いを経て戊辰戦争は新政府軍の勝利で終戦を迎えます。

これらの戦い中、白虎隊の彼らは、飯盛山から城の方面が燃え上がっていたのを見て、城が落とされたと勘違いしていました。当時、忠臣を誓う彼らは武士道の志として、“名誉”こそ至高 の精神で自害していきました。

飯沼貞吉は自害のつもりだったが、一人生き残りました。
そして、1931年(昭和6年)2月12日、76歳で生涯を終えています。

彼は、命が助かった時、後に長州藩士の楢崎頼三に引き取られました。ある日の宴の際、村人が「生きててよかったな」と言ったら、その時、土間に降りて自害しようとしたのを楢崎頼三が止めて、「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるよう勉強せよ」と諭したという話が残っています。
以降、貞吉は一心不乱に勉学したといいます。

彼一人の姿をクローズアップしてチャネリング(リーディング)みています。
大粒の涙をボロボロ流しているのが見えます。顔を上げたまま、声を震わせながら泣いている。この姿は白虎隊時代の姿のようです。彼はみんなが自害していくのを見ています。

目は大きく、鼻も高いように見えます。はっきりした顔立ちです。

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Posted by Meatel